相続人 5





 食堂に集ったのはやはりといおうか、一護と冬獅郎のふたりだけだった。浦原はいてくれても良さそうなものだったが、先ほどの一件もあり一護の浦原を警戒する気持ちは強かったからそれで良かったのだろう。給仕は浦原が行ったが、食事が終わるまで顔を見せるつもりはないらしい。
 長いテーブルを挟んで一護と冬獅郎は席についている。主人の座る席にはさすがに座る気になれなかった一護は丁重に断り、そうして対座する冬獅郎の席も当然の流れで移動した。
 真正面に座る距離は十分広くはあったが、当初の予定だった距離からすれば随分と短く、それが一護を少しだけ後悔させた。冬獅郎の顔をまともに見れないから、これなら離れていられるだけ初めの席のほうが良かったかもしれないと。
 崩すのを躊躇われるほど美しく皿を飾る料理はどれも絶品であるはずだけれど、一護にその味を噛み締める余裕はなかった。静かすぎるこの場の雰囲気もその一因ではあるが、なにより浦原の言葉が、その真摯さの恐怖が胸に刺さって取れていなかった。だから冬獅郎との距離が気になったのも気が張っていたためだろう。ただただ一護は自身のまとまらない思考にやきもきしていた。
 食器のかち合う音ばかりが響いていた食堂に椅子が床を擦る音が響き、一護がはっと顔をあげれば食べ終えた冬獅郎が立ち上がったところだった。皿を見れば多少残されてはいるが好き嫌いがあるわけではないようだ。食が細いのか、それとも身体にその量が過ぎただけか。
 声をかけようと思って冬獅郎が己に視線をくれないことに気付く。自身もまたあの廊下であって以来、食堂に彼が入ってきてもまともに顔をあげなかったのだ、後ろめたさを感じて口を噤む。冬獅郎はそのまま黙って食堂を出て行った。扉の閉まる音が虚しく、一護は無性に自分が独りだと思った。
 食器を下げに浦原が現れる。視界の端に入ったその姿から一護は必死で注意を逸らした。見れるわけがない。不可解な男は今や畏れでしかなかった。喉が渇くが、グラスへ手を伸ばすこともできず、フォークに突き刺した肉を口に運んだ。咀嚼することで多少なりと喉が潤えばいい。
 浦原もまた一言も発さず食器を片付けた。一護もとうに満腹だったが、それは腹が満たされたというよりも胸につかえるものが苦しくて食が進まないためだ。
 考えろ。一護は己に言い聞かす。
 考えなければならない。
 思考の放棄は、放り込まれたこの現状での負けを意味する。
 それでも一護の意志は現状の打開ではなく妥協、冬獅郎に関わる方向で固まりつつある。たとえ浦原と死んだ男の希望に沿う形だとしても考えることは必要だった。怖気づきそうになる足を前に進ませるためにも、目的は、必要だった。
 浦原の言葉も、遺産もどうだっていい。
 不可解ならば読み解けるだけの材料が揃うまで胸の中に仕舞っておく。
 自分の時間を動かすには、今できることをするしかないのだ。
 心は決まった。男たちの要望を呑む。
 日番谷冬獅郎を人間にしよう。
 閉じ込められたこの広く窮屈な箱庭で過ごす決意を一護は固めたのだった。
 食事を残し、席を立った。







 全ての廊下を皓々と照らすシャンデリアに月の光は窓より先へ侵入できずにいる。一護は重い腹を抱えてさんざん走り回ったおかげで大方は覚えてしまえた屋敷の中を迷いの無い足取りで歩いていた。向かう先は定かでない冬獅郎の部屋である。思い立ったら即行動の一護は夜半を過ぎた時刻にろくに紹介も終えていない人間の部屋を訪れることにも抵抗はなかった。まずは会わなければ。その考えだけが今一護の頭を占めている。土台己は彼の身を任されたのだから、いわば保護者のようなものだ。多少の無礼は勘弁してもらえるはずだ。それは冬獅郎自身に了承を得たことではないながら、一護の背を後押しした。
 昼間迷い込んだ廊下を歩く。窓を覘けば陽の下ではあれだけ麗らかだった庭も夜の闇に不気味に眠っている。置かれた状況からか、閉塞感を覚えてしょうがない。観察する余裕もでてきた一護は、午前中バルコニーから眺めた外界にも今ここから望む外界にも人工の灯が見えないことに気付く。どれだけ街から離れているのだろう。これはますます閉じ込められたと表現したが適格か。しかしそれも、もはやどうでもいいことだった。
 冬獅郎の現れた角を曲がる。ここから先は初めての場所だ。それでも歩けばなんとかなるだろうという妙な自信は薄れなかった。長い廊下は物音ひとつしない、靴底が絨毯のひだを擦る音と、自分の身体が脈を伝える音だけが全てだ。あんまり人気がないものだから誰か己を脅かそうと隠れているんじゃないかと、そんな由無し事さえ考えた。
 冬獅郎の部屋までは幾つかの曲がり角があった。しかし一護は何一つ間違えることなくその扉の前へ辿り着いた。正確にそこが冬獅郎の部屋と知れるわけではないが、廊下の窓からその部屋の位置を計算したところこの屋敷の中で大きい部屋のひとつだろうと予測できたからここが冬獅郎の部屋だと一護は確信した。
 ノックしようと右手を上げて一呼吸。ドアを開けて最初の挨拶は何にしようか。軽く「よぅ」か、「元気か」か、どちらもしっくりこない。何か作業をしていたら一先ずは邪魔することを謝ろう。
 よし、と気合を入れて一護はドアをノックした。
 返事はない。
 もう一度。
 やはり返事は返ってこない。
 聞こえていないのか?シャワーを浴びているとか?もしかして寝ているのか。思わず腕時計を確認すると短針は9時にわずか届いていないくらいだ。彼の生活を確かには知らないから言い切ることはできないけれど、先ほど夕食を済ませたということはまだ起きていていいだろう。出直すか、そう考えて自分の部屋との距離を測る。駄目だ。一応という気持ちでノブに手を乗せれば、それは抵抗無く軸を回した。
「冬獅郎‥?」
 恐る恐る一護は顔を覗かせる。開いたドアの隙間から漏れ出る明かりはなく、部屋の主は寝ているという可能性が強まったからだった。そろそろとドアを大きく開けて、廊下の光でその中を窺おうと試みる。自分の部屋と構造自体はそう変わるところはないようだ。鏡のように区割りが逆になっていることと、調度品の雰囲気が若干古めかしいことを除けば殆ど同じだといっていい。そうすると今立っている位置からみて左の壁にあるドアが寝室への入り口というわけだ。その反対側は浴室と洗面所。どちらも閉ざされているドアのうち、一護は迷い無く左のドアを選んだ。部屋の明かりをつけようかとは迷ったが、スイッチを押す間さえ惜しかった。







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