相続人 8 ふと紙面に差す光の色に時計を確かめれば12時を回っていた。何気なく冬獅郎の方を振り向けば音がしたんじゃないかと思うほどばっちり透き通るような深い翡翠と視線がかち合った。 「うぉ‥っ、冬獅郎、気付いてたのか‥」 心臓に悪い。せめて声をかけてくれればいいものを‥。本に夢中になっていたから遠慮していたのだろうか、それともまだ自ら己の気を引こうと思うほど親しくはなれていないのか。一護は本を閉じ、傍らに置いた。 「おはよう‥というのも変だな、こんにちはも他人行儀だし‥」 うん、と一護は唸って 「久しぶり、かな。昨日は会わなかったから。夕食の時間、お前寝てたか?」 身体に悪いから夜更かしもほどほどにしろよー。と一護は笑って冬獅郎に言った。一人で喋ることにももう苦を感じることはないようだ。言葉を返してくれないかと期待はするけれど。 冬獅郎は観察するように一護を見返している。その瞳にもはや無関心の色はなかった。着実に冬獅郎は自分に興味を持ってくれつつあると一護は確信する。そう思えば舌も滑らかに動いた。 「今日は珍しいな。昨日はずっと寝てたのか?お前日の光駄目そうな雰囲気だったからちょっと驚いた。この場所にはよく来るのか?」 冬獅郎の返事を望みながら、一護はそれを待つことはしなかった。顔をつき合わせて話をしていれば相手の機微も大体だが察することができる。口を開く気配も、首を動かす気配も無い。彼はまだ、己を判断している段階なのだろう。 「飯は食ったか?朝は知らないけど‥お前食ってなさそうだな。駄目だぞ、食事はしっかりとらないと。折角美味いの作ってもらってるんだしな。勿体無い」 ついつい保護者めいた台詞も飛び出す。口にしながらそんな自分を揶揄かう己がいる。くすぐったいなぁ、そう思った。 「軽く抓むものもらいに行こうか。俺は食ったばっかだからまだそんな食べられないけど、付き合うぜ。それ以上痩せたらお前やばいだろう」 声に出して笑い、一護は立ち上がりながら手を差し出した。ごく自然な動作で。彼の目に冬獅郎はすでに弟か自分の子供くらいに映っているのだろう。その行動を奇怪しく思うこともない。 冬獅郎は躊躇うような色をその翡翠色の瞳に浮かべた。差し出された手を見つめてどうすればいいか悩んでいるようだ。 ほら、と手を揺らして冬獅郎を催促する。 手を載せるんだ、と口には出さなかったが目で伝えられるかと彼の目を覗き込む。 「行こう」 腹は減っていないかもしれない。もう少しここにいたいかもしれない。己はこんな、強引な面を持ち合わせていただろうか。 それでも冬獅郎が拒まないから。まだまだたくさんのことを覚えなければならないから。一護は冬獅郎に関わろうとする。はやくはやく、その表情が変化する様を見たい。 笑む一護に冬獅郎はそろそろと手を持ち上げた。これで正解しているのかと問いかけるような仕草だった。 その小さな手が一護の掌の上に来て、その上に乗る前に一護は彼の手を掴み強く引っ張った。驚きに目を開き、冬獅郎はベンチから立ち上がる。一護を見上げた顔は反応に困っているといった顔だ。 一護は歯をみせて笑って、ベンチに置いた文庫本を取り上げると冬獅郎の手を引いて階段をおりた。水路を渡り、石畳を歩く。冬獅郎は半歩遅れてついてくる。うーん、父親のようだ。一護は考え、こっそり笑った。 随分仲良くなられたようですねぇ。 浦原が呟いた。傍らにいるのはテッサイと呼ばれている男だ。確かな名前なのかは知れなかったが、浦原は彼をそう呼んでいる。服に隠しきれない筋骨隆々といった精悍な身体に、一風変わった髪形で眼鏡をかけ、口ひげを蓄えている。 「は、黒崎様は日番谷様に友好の情をお持ちのようで」 それにしても彼の関心ごとは自分の世話する薔薇園に抱いた彼らの感想だった。丹精込めて育てている花たちもそうだが、彼の己の関わる事どもに対する愛着心は一般より抜き出て強かった。 もじもじとその体躯には似合わぬ仕草で手にしたお玉を弄る。それを見て浦原は苦笑した。 「きっと気に入ってくださいましたよ。あの温室は格別見事ですからねぇ。今度突然お茶を持っていってあげましょうかね。驚きますよーきっと」 悪戯事を楽しむように浦原は笑う。テッサイと浦原の付き合いは長いものであったから、その笑い声に返すのは呆れの溜息だ。 「あまり揶揄かっておやりではありませんぞ。黒崎様の貴方への警戒も大分溶けて参りましたが意地悪が過ぎると本当に嫌われてしまいますぞ」 ぱたぱたと子供の駆ける足音がドアの向こうから聞こえる。雨とジン太、二人の可愛い使用人は喧嘩交じりに掃除をしてくれているに違いない。雨は極端な晩熟で、ジン太は人嫌いときている。自分たち以外の前には滅多に姿をみせない。勿論、一護たちにも。もう少し仲良くしてくれればいいんですけどねぇ。そんな風にも思うのだが、浦原に心からそれを望むつもりはないようだ。 「いいペースです。やはり見込んだとおりの人でしたね」 黒崎サンは、云って浦原の笑みは少しばかり昏くなる。その笑みはいただけないとテッサイは思う。友人ではない、雇われているといっていい。己はこの屋敷の主人だった男に雇われているのではなく、この男に雇われている。家族のように食卓を囲みながら、けっして側近くには近寄れない男。越えてはならない一線が明確に引かれている。それは彼自身を守るためというよりは、周りの人間を守るためのように思われた。 「さ、軽食の準備をしてください。直にお二人がお見えになりますよ」 浦原はテッサイの肩を叩き、テラスをその場所にしようと歩き出す。テッサイはキッチンへ向かい、冷蔵庫にしまってあるケーキを盛り付ける準備を始めた。 |