相続人 9 軽食を摂り終えてその後、一護は冬獅郎を放さなかった。冬獅郎もまた嫌悪する素振りをみせることはなかったし、供に過ごす時間を重ねるだけ冬獅郎の眼には熱が宿っていくようだと一護は思う。 書庫にも連れていった。自分が本を読みたいためでもあったが、冬獅郎は小説というものを読んだことがあるだろうかとそれを知りたくなったためでもあった。娯楽のごの字も知らないだろう彼にその場所を案内することは目的達成のためにも有益だと思われた。 「これが、シェイクスピア。こっちはゲーテ。ここの書庫には色んな国の本が納められているらしい。東洋のはさすがにないみてぇだけどな」 苦笑交じりに笑って、一護は円形の、ドーム型天井付近まで届く本棚がなす壁に沿って歩く。部屋の真ん中には重厚なテーブルが置かれて、ビロードの椅子が4脚それを囲んでいる。 「読書のためというより蒐集が目的だったんだろうな。中には文庫もあるけど、殆どアンティークのためみたいだ」 それを勿体無いとは思わない。本は本だ。集めた人間が好きにすればいい、と一護は思う。これらを集めた人間は飾る目的の方が強かっただろうが、自分は読ませてもらおう。汚すことが怖いから部屋の外に持ち出すことは出来ないが。 「どれか、読んでみないか?古典のような難しいのじゃなくていいんだ。街に出て、最近の作家の本も見に行こうか。気に入る本はきっとあると思うんだが‥」 街。街に行くことが、この屋敷から出ることが出来るだろうか。浦原はそれを阻もうとはしないだろうか。 一護の浦原を恐れる気持ちは大分薄らいでいた。話しかけられればどもらずに受け答えすることもできた。それでも、自分から近づきたいとは思わない。 街での生活を思い出して、一護は外に出たい欲求を覚えた。2週間ほど屋敷の敷地から出ていないが、それへの不自由は感じていなかった。それでも喧噪が懐かしく思えて、一護はちらりと冬獅郎をみやった。本の背表紙を眺めている。選んでいるようではない、小説というものがどういうものなのか考えているのかもしれない。 「なぁ‥、冬獅郎」 外に出てみないか? 振り向いた翡翠に、庭ではないさらにその『外』の説明から始めた。 夕食の席、今ではキッチンへの扉付近に立って一護たちの食事を見守るようになっていた浦原に一護は思い切って口を開いた。 「あの、さ、浦原さん」 「はい?」 言いよどむ横顔は肉を細かく切っていく。自身を落ち着かせようと腐心しているらしい。浦原は扉の脇から離れた位置にいる一護に応えた。 「明日、街に行きたいと思うんだけど、駄目かな?冬獅郎と一緒に‥」 かちゃかちゃと落ち着きなくナイフが皿にあたっている。一護の正面に座る冬獅郎を浦原は見やって、その顔が何も表していないことを見止めた。 「街‥ですか」 ふむ、と考え込むように黙って、しかしあっけらかんと彼は言った。 「いっすよ。どうぞ存分に楽しんできてください。街までは結構離れているので車を出しましょう。あ、ご心配なく。運転は私じゃありませんから」 肩の力が一気に抜ける。けれどそれを許せば料理の上に被さりそうだったから、一護は「そうですか」とだけ溜息を零して胸を撫で下ろした。 浦原へ振り返れば、その顔はにこにこと笑んで。けれどその表情の不可解さは一護を安心させてはくれなかった。 許可は取れた。いつの間にか、行動のいちいちを浦原に確認しなければならなくなっている気分だ。 なにはともあれ、許可は取れた。明日は、おそらく彼にとって初めてだろう、観光も兼ねた外出だ、と一護は胸を膨らませた。 快晴。絶好の外出日和だ。黒塗りの目立つベンチから降り立った一護は久方ぶりの人間の空気を肺に吸い込んだ。石造りのビルに石畳。商店は営業を始め、雑踏はこれからだ。昼食はカフェでとるつもりで一護は車を頼んだのだった。 浦原は一護のアパートから荷物を全て運んでくれていた。だから一護の服装は至ってラフなものだ。タイトなデザインを好む彼は、この日も身に締まった服を選んでいた。冬獅郎はといえば、一護は昨夜夕食の後冬獅郎のクローゼットを見せてもらった。屋敷の中で彼は変わり栄えのしない服を着ているが、どれも一護が着れば息が詰まるだろうと思うものばかりだった。ワイシャツはどれも白でまったくの無地であり、パンツもいつでも糊の利いている清潔なものではあったが家の中で寛ぐには少しばかりかたっくるしいだろう。冬獅郎に訊いても首を傾げるばかりで(コミュニケーションはとれるようなったがまだ会話らしい会話は叶っていない)浦原に尋ねてみても冬獅郎のサイズに合う服はないという。用意しましょうかと云った浦原に一護は首をふった。どんなデザインの服が与えられるのか想像できなかったし折角出かけるのなら街で買ってしまえばいい。この日も冬獅郎はネクタイこそ締めてはいないがワンボタンの、黒のスーツ姿だった。 午前中、午後いっぱいを使っても望む場所全てを回りきることはできないだろう。一護はこれから選ぶ冬獅郎の服に思いを廻らせた。午前中は服選びに潰れそうだ。 「それでは、黒崎さん。御用がおありのときは携帯に連絡を入れてくださいね。私も街をぶらぶらしていますから」 車の窓から顔を出して浦原が言った。ありがとうございます、とすっかり背中の存在を忘れていた一護は慌てて頭を下げた。それを察したろうか、浦原は微苦笑してそれではと窓を閉めた。車は滑るように発進する。そのナンバープレートを見送って、一護は傍らの冬獅郎に目を落とした。 「行くか」 言って、手を差し出す。 それに冬獅郎は、今度は躊躇わず応えた。 |