相続人 7 結果からいうならば、冬獅郎にとってその夜の出来事は一護ほどの感動は呼ばれなかった。 関心といえば己に触れるものがいたということだ。信じがたいことではあるが、冬獅郎は文字通り人と接することなく今まで生きてきたのだ。 他人と顔を合わせることはある。そうでなければ彼は鏡に映る自身を己として認識できたかどうか知れない。しかし会話といえば一方的なもので、彼にとって生活に必要なものは要請する前に準備されていた。生活に必要最低限度であったが、苦楽も知らぬ彼に特別不自由と感じる心はなかった。そのため、応答といえば首肯だけで、否の意を示すことさえそうなかった。 それでも声を発することがまったくなかったわけではない。笑うことも泣くこともなかったが、口の中で思考を言葉に変換することは多々あった。それも作業に没頭している中でのことなので意識の内ではなかったが。 冬獅郎は自分の肌が他人に触れられるものだということを確かくは認識していなかった。温度さえ感じているのか怪しい彼である。他人の肌が直接熱を伝えることに純粋に驚いた。抱きしめられて、また驚いた。 『黒崎一護』 名を呼んでやるというその行為だけで泣きだしそうなほどの喜びを表した彼は、冬獅郎の興味を間違いなく引いていた。 一護の新しい生活は始めこその最悪のスタートではあったが、冬獅郎と初めて言葉を交わした(声を聞くというそれだけで、一護にとっては会話だった)2日目のあの夜に気持ちは綺麗に切り替わりそれからの二週間なんの問題もなく運ばれた。 無理矢理に大学を休学させられた一護はその勝手な行為を許すことはできなかったが、割り切ることが早いから在学中にはお目に書かれなかった書物がその屋敷の書庫に大量にあることを知って不本意ながら喜んだ。もともと語学の勉強のために渡英した彼である。英国のみならず各国の主要な作家陣がそろうその書庫はまさに宝物庫だった。 一護は屋敷の中で自分と冬獅郎、浦原以外の人間と会ったことがない。一度浦原と話している他の人物をみたことがあるが遠目でよく分からなかった。服装からして屈強な身体をした彼は料理人のようだったが、手には枝切りバサミが握られていて、庭師も兼任しているのだろうかと首を傾げた。この屋敷では兼任が普通なのだろうか。 それでも広大なこの屋敷の管理に2人だけとは足りなさすぎではなかろうか。SPのような格好をした男たちはあれ以来見かけることがなくなったが、雇われ者だったのだろうか。彼らが屋敷の管理に関わっているとは思えなかったが。 屋敷の掃除は行き届いていた。もしかすると己と顔を合わせないよう言いつけられているのかもしれない。しかし日中歩き回ってみても(地図を把握するためだ)誰かがいるという気配を感じることはついぞなかった。 違和感は初めの一週間だけで、あとは人のいないという状況にも慣れ、一護は屋敷での生活に順応していった。目覚まし時計がなくとも午前10時前には起床し、長い廊下と階段を渡って一階の食堂まで赴く。そうしてもはや昼食ともよんでいい朝食を摂ってその日することを考えるのだ。 一護の興味は書物にもそそがれていたが、念頭には常に冬獅郎がいた。互いの生活に入ってみれば、どうやら彼は夜型の人間らしい。日の昇っている時間帯、健康的な生活を送る一護と顔を会わせるのは稀である。これではいけない、とも思うのだが、初めのころほどの勢いはなく、足踏みしてしまう。リビング、窓辺の席で食後の紅茶を飲みつつ外を眺めていた彼はそこに思いがけない影を認めて腰を浮かした。 丁度考えていた件の彼だ。珍しい、本当に珍しい。どこか日の光を厭うているような気のある冬獅郎が庭に足を延ばしている。進行方向にあるのはバラ園だ。見事なガラスの温室に薔薇は濃密な匂いを放ち、咲き誇っている。料理人の男を見かけた場所もそのすぐ側だった。彼が世話をしているのだろう。 一護は受け皿にカップを戻すと温室へ向かった。軽い挨拶ばかりでじっくり会話の時間を得られていなかった今までのために、この機会を逃したくない。暖かな日の降り注ぐ庭園へ一護は足早に降り立った。 換気はされているが、外気よりは幾許か高い温度を冬獅郎は感じた。ここへ来るのは初めてではなかった。気に入ったとは思っていなかったが、座ってばかりで血流の悪くなる足を延ばすために部屋の外にでれば自然と足の向かう先がここだったから安らげる場所ではあるのだろう。花に興味などない冬獅郎が温室へ足を向ける理由、それは目を楽しませるためでも香に癒されにくるためでもなかった。名残がある。遺伝子工学に携わっている彼の目を引いたのは素人目にもそれとわかる、人間が手を加えられた薔薇の数々だった。ドレープのような花弁もあれば蕾のような花弁もある。赤、白、桃色、紫と色も模様も様々に一個の庭とよんでいい温室を彼等は彩っていた。名残とは、不可能とされている色を出そうと試みた跡だった。青の薔薇。黒いチューリップと同じくもとよりその色を合成するだけの遺伝子を持っていないそれらを望む色に染める。それは専門畑の人間にとって大変な栄誉だ。この屋敷の主人がそのような意欲に燃えていたかはしらないが、少なくとも試したことはあるのだろう。花弁の根元が僅か青、それでも紫に近かったが、に染まった薔薇の一群れがあった。 石畳の床には水路が伸び、小さな噴水さえあるそこは数段高くなった中心に休める場所を設えてある。薔薇のアーチが外からの視線を防ぐ。水の流れる涼やかな音の中を、冬獅郎は中心に向かって歩いた。 温室の入り口近くに来て、一護は冬獅郎がそこにいないのではないかと危ぶんだ。入り口のガラスから窺った限りでは目的の人物の姿を見止められない。この場所を訪れるのは初めてだ。庭を散歩することはあるが、温室の中に入ったことはなかった。入りにくかったのだ。他人のものであるという意識はひとつひとつの空間へ踏み入れることを躊躇させた。 扉を押し開いて顔だけを中にいれる。濃厚な薔薇の香と、温い空気が頬を撫ぜた。 「冬獅郎‥?」 ドアの隙間から身体を滑り込ませて、静かに扉を閉める。微かに水の流れる音がする。日の光をいっぱいに集める天井の高いそこは一護を圧倒するほどだった。過ぎるほどに明るい。一護は好奇心が胸を高鳴らせていくのを感じた。こんな場所があったなんて‥。今まで訪れなかったことを残念に思った。 ぐるりと見渡しても冬獅郎の姿はなかった。しかし部屋の中心、小高いそこに死角がある。テーブルの脚と椅子が見える。隠れているそこに彼はいるんじゃないかと一護は足を踏み出した。 「冬獅郎」 ぼうっとしているらしいその顔を見とめて、一護は頬を緩ませる。 思えば彼は常にそうなのかもしれない、実に無防備だ。そう思うのもまた、己の彼に対する感想の変化を表しているのだろう。彼は初めから自身の態度を変えてはいないのだから。 一護は彼を呼んだけれど、呼ばれた冬獅郎は一護が現れたことに気付いていない様子だ。思索に耽っているのだろうか。研究付けの日々だったと、今でもそうであるようだから思考することは彼の癖のようなものなのだろう。 「冬獅郎」 もう一度呼んで、ベンチに座っている彼の隣に腰を下ろす。金属の冷たい感触が一瞬意識をそちらに引いたが、一護の目は冬獅郎から離れなかった。 一心に前だけを向いている。視線の先には薔薇の壁だ。葉々の隙間からガラスの壁とその向こうの青い空が見える。すぐ側には噴水が音を奏でて、一護はほぅっと息をついた。なんだか穏やかだ。少しのむず痒さも感じて、緩む頬を抑えられない。本当に彼の父親になったような気分だった。二人の妹をもつ一護は、子供好きの素質を備えているのだろう。 文庫本が尻のポケットに納まっていた。冬獅郎が自分に気付くまでの間、読書で暇を潰そうと一護はそれを取り出ししおりを挟んでいるページを開いた。ジェイン・オースティンの文集だった。軽快な筆致を追ううちに、一護もまた己の世界へと没頭していった。 |