風切羽−変− ――ネジ、おいで… 夕闇が迫っているというのにあかりも点けない座敷の奥から 母が手招きしている。 「なんでしょうか、母上。」 何が待っているのかと、不安の中にも期待を含ませて小走り に母の元まで。そして示されるがまま目の前に膝を突いた。 そうして尻を落ち着かせる間も与えず、母はその小さな体を 抱すくめる。 「母上?」 母の振動が直に伝わって、ネジは不安を煽られる。 「どうかなさったのですか?母上。何かあったのですか?」 ははうえ? 「ネジ、しばらく家の外へ出てはいけません。」 「なぜです?」 ゆうるりと身体を離し、濡れた目のままネジを見据えて語る 母にネジの問いは酷く幼く聞こえただろう。 「今、日向には暗雲が立ち込めているのです。外にでれば嵐 に巻き込まれます。ただこうしてここで大人しくしているの です。」 「修行は…?母上。私は強くならねばならないのです。父上 との約束です。」 父上との 母の肩がびくりと跳ね上がった。それは子供であるネジの目 にも明らかで、ネジは何か自分が悪いことを言ったのかと恐 れた。 「は、母上っ、母上?私は…」 「いいえ。いいえ、何でもないのです。母は少し疲れている ようです。心配をかけましたか?」 青ざめた表情で、けれど微笑むその顔はあまりに儚げだ。 ネジは己の肩に置かれた母の両手に熱が伴っていないのに今 初めて気がついた。 「…分かりました。外には出ませぬ。ここで良い子にしてお ります。」 今にも泣き出しそうな顔で一気にそれだけを云うと、ネジは 母の胸に飛び込んだ。 それを抱きしめ返して、ネジの髪に頬を寄せる。愛しむよう に目を閉じ擦り付ける。 母上…母上… 母の胸に押され、服に阻まれくぐもった声で、何度も何度も それだけを繰り返す。 そうすることでしか、胸中に渦を巻く予感にもにた恐怖に抗 えないとでもいうように。 母上…母上… 確かに呼んでいるのは母のはず。だがネジの脳裏にはあの子 供の影がちらついていた。 母上……なると… 金色の髪と碧い瞳をもつ幻のように儚げな子供。 今…お前に会いたい。 外出を許されるのは、それから3日後のこと。 御輿が行く。 それは正しくは御輿ではなかったが。 その歩きようはまさしく御輿でも担いでいるかのように、ひ どく仰々しく、ひどく神聖に感じられた。 其の御輿は男と子供。肩ほどの高さに抱き上げられて、子供 と男が山を登っていく。 彼らを照らす月は半分に欠けた望月。 子供はそれを見ぬよう男の頭にしがみついている。 御輿が行く。揚々と。 誰に迎えられもせず、男と子供の御輿が行く。 □ □ □ 風切羽−任− 父上が死んだ。父上が死んだ。 父上は殺された。 ――ネジ‥お前は生きろ ネジは山の中を走っていた。上弦の月はさらに膨らみもはや 満月に近かったが、厚い雲はその照りを妨げている。闇の包 む木々の間をネジは勘だけを頼りに走っていた。 どうしても会いたかった。『会いたい』という具体的な望み は抱いていなかったかもしれないが、兎に角あの場所へ行き たかった。 ――お前は一族の誰よりも日向の才に愛された男だ 日向ヒアシの影として死んだ父は葬式も出すこと叶わず、墓 に名を刻むことすら許されず。 ただ気持ちばかりの喪に服す家の空気は胸を騒がせるばかり で、落ち着くことなどできないものだった。 涙はでない。 ――お前を…… ネジはまだ一度も泣いていない。 ――宗家に生んでやりたかったなぁ 父上――――ッ! 頭を撫でるの感触は今もまだ残っている。 荒々しく戸を開き、森の中より真暗な小屋の中、ネジは子供 を探した。 「どうしたの?」 闇の先から声がした。さらに目を凝らせば僅かに光を集めて 浮かび上がる窓の下、子供が横たえた身体の上半分を起こし てネジを見つめていた。 なると‥ ネジは声なき声で彼を呼び、慌しく靴を脱いで上がりこむと 一目散に子供へ駆け寄った。 そして彼の前に膝を突いて、今初めて涙を溢す。 「ち‥父上が‥、父上が‥ぁ‥」 訊きたいことはたくさんあった。言いたいこともたくさんあ った。 けれど今口から零れるのはそれだけで、ネジはそれでもなん とかとぎれとぎれに事を話した。それでも事実を全て伝える ことはできなかったけれど。 そのネジの背に子供は腕は回し、頬を摺り寄せた。 「ネジにぃちゃん‥、ネジ‥?泣かないでってば。ネジが泣 くと俺も悲しいってばよ‥」 それが真実だというように、子供の目もまた潤んでいた。 ネジの嗚咽と、子供の無言の抱擁。 それが、以後そこにある全てだった。 散々に涙を流し、もはや疲れてそれも枯れてしまったネジは 自らにのしかかる眠気に耐えて己に腕を回して慰めてくれて いた子供の腕を取った。 されるままに身体を離した子供はネジの顔を覗き込む。その 目は大丈夫?と訊いているようだった。それににこりと笑い かけてネジは静かに目を閉じた。大丈夫だと、この子供に心 配をかけたと、それを詫びるように目を閉じて再び開いた。 「久しぶりだね、ナルト。ずっと会いたかったよ。」 現れたネジの優しい瞳にほっと息を吐いて、ナルトも微笑ん だ。 「オレもだってば。オレ昨日からここにいたのにネジにぃち ゃん来てくれなくて寂しかったってばよ。」 拗ねたように唇を尖らせるナルトに、ネジは慌てて言い繕っ た 「えっ?そうなの?知らなかったよ。ここのところ外出を禁 じられてて、今日やっと解禁になったんだけど‥」 その先を察して、ナルトははっと顔色を変えた。 「ご、ごめんってば」 ネジにぃちゃん。 泣きそうな顔をするナルトに安心させるような笑みを作って ネジはナルトの頭に手を置いた。そしていつかしたのと同じ ように優しくその髪を梳く。 「ネジにぃちゃん‥」 「うん、ありがとうナルト。ナルトに会って僕も落ち着けた。」 ありがとう、ともう一度消え入るそうな声で云ってネジはふ と気づいた。 誰もいない。 その小屋の中はナルト1人だった。 その事をネジは口の端に乗せようとしたけれど、なぜだかそ れがいけないことのように思われてやめておいた。 他ならばそれが気味悪くも感じられただろうが、ナルトを前 にするとそんなものは寄り付かないようだ。むしろ今はそれ に助けられたところもある。 だからネジは己の胸にわいた疑惑を言葉にすることなく。ま た、形をもとうとしていたそれを霧散させた。 そして彼に訪れる2つ目の契機。 それがその後、その小屋を出た後に待っていた。 黙って飛び出してきてしまったから。もしかしたら家の人が 探しているかもしれない。 とネジは惜しむナルトの手を硬く握って別れた。 明日、また来るから。と。 その言葉に強く頷いたナルトの頭をもう一度撫でて、ネジは 入り口の戸を閉めた。戸を閉める直前まで互いの顔を見つめ あったまま。 そうして、家路につくため振り返った視線の先、その影はあ った。 声を上げることもできぬほどに驚いたネジは、その影が日向 一族のネジだな?と訊くのに素直に頷いた。月が雲間から顔 をだし、その影が父と同業のもので、己の目指すものだと知 った。だから、あの子供のことで話さなければならぬことが ある。とついてくるよう促した男に抵抗なく従ったのかもし れない。 連れられた先は広大な屋敷だった。 日向本家と並ぶほど、いやそれ以上の広さと威厳をもつそこ は子供心にも理解できた。そして遠目にだけみることのでき たあの人物が目の前に現れたときそれは確信に変わった。 己を連れてきた男が膝をおる。自分もそれに倣うべきかと迷 ったがそうするまえに目の前の年配の人物が口を開いた。 「日向ネジじゃな?」 「は、はい。‥火影様。」 動悸が僅かに速まる。頬にも赤みが差してきた。 「今度のことはすまなんだ。お前にも悪いことをしたな‥」 それが父のことを指しているのだと知って、またあの火影様 に謝られているのだと気づいて、少年であるネジは焦った。 けれどこの場でいうべき言葉を知らず、またこみ上げる涙に ネジは口を噤んだ。 そのネジの二つの事情を汲んで、火影は聡い子じゃなと頷い た。 そして質す。 「お前はあの子と仲がいいのかな?」 あの子というのはナルトだろう。例えそうでなくてもナルト しか思い浮かばない。 「ナルト…ですか?」 遠慮がちに問うネジに 「ほう、名前まで‥。本当に仲良くしてくれているようじゃ な。」 うんうんと満足げに何度も頷いて、それならと口を開いた。 「それなら、お前に一つ任を負ってもらっても良いかな?」 それはときにお前の重荷になるやもしれん。それでなくとも お前は大変な時期じゃ。 それでもあの子のためと、ひいてはこの爺のためと思うて任 されてくれぬかの? 火影にそこまで言わしめては、断るのは罪というもの。ネジ はそれを意図せぬところで理解していた。 「私にできることでしたら。」 姿勢を正して云った。 ありがとう、と老練な好々爺は云った。 そうして伝えられた『任務』 そして最後に付け加えられた、家の者には私から云っておく という言葉。 『任務』 それはさして難しいものとは思えなかった。 next |